神戸にいた頃の話をする。
住んでいるマンションから徒歩5分のところに大衆居酒屋があった。焼き鳥を中心に品揃えが充実しており値段も手頃であったため、地域の学生御用達のお店となっていた。休日はカップルやサークルの打ち上げなどで賑わっていた。
自分もよくそこへ飲みに行っていた。正確にはバイトのない木曜に月2程度で通っていた。しかし誰かを誘うわけではなかった。誘う誰かはいなかった。自分には他に目的があった。
秋の暮れのある木曜のことだった。21時を回ったことを確認して自分は居酒屋へ向かった。
平日かつピークを過ぎた時間帯ということもあり店内は比較的空いていた。店員に軽く会釈したあと通路をまっすぐ進み、奥のスペースにあるカウンター席の一番端に座った。正面の入り口から離れたこの場所は滅多に人で埋まることがなく、それゆえ周囲に気を遣うことなく過ごすことができる。お気に入りの空間だった。
そしてその席に好んで座る理由はもう一つあった。
入店してから時計が半周し少し酔いが回ってきた頃、それはやってきた。
入口側から響くヒールの音。まばらに行き交う声の中でそれははっきりと聞き取れた。
こちらへ次第に近づいてくるのが分かった。自分はゆっくりと深呼吸し、正面を向いたまま意識のみを音の方向へ飛ばした。
足音がすぐ横で止む。
「すみません、とりあえず生一つで」
カウンター越しに店員へ声をかけると、その人は自分と一つ間隔を空けて席に腰かけた。
少し間をとってからその人の方に顔を向け、なるべく素っ気ないトーンで挨拶する。
「…こんばんは」
そこには紺のジャケットとパンツスーツに身を包んだ女性が座っていた。
「どうも」
こちらをちらと見て微笑む。深い色の瞳が自分を見つめる。綺麗に切りそろえられた前髪がわずかに揺れる。
彼女こそが、自分が居酒屋に通う目的だった。
「もう結構飲んでる?」
「いえ、さっき来たばかりです」
他愛のないやり取りから会話が始まる。
いつものことだが姿を見る度に少し緊張した。彼女は落ち着いた雰囲気ながらも華のあるオーラを纏っていた。今は座っているから分かりにくいが背丈も高かった。街中ですれ違えばふと振り返ってしまいそうな、人目を引くシャープな印象の人だった。
彼女の名は御影さんといった。とはいえ彼女がそう名乗っただけで本名かどうかは分からない。漢字も知らなかったが、ここ六甲道の二つ隣に御影という町があったので勝手にその字を当てていた。もしかするとその近辺に住んでいるのかもしれないとも思ったが、プライベートには余計な探りを入れないことにしていた。
御影さんと知り合ったのは数ヶ月前で、たまたまこの店のこの席で隣り合わせになったのがきっかけだった。詳しくは覚えていないが、人見知りの自分にしては珍しく勇気を振り絞って話しかけてみたところ意外にも話が弾み、向こうに気に入ってもらえたようだった。また聡明さと寛容さを兼ね備えた彼女の口調に自分は甘い魅力を感じた。
それ以来、彼女とは時々こうして顔を合わせるようになった。
事前に連絡を取っているわけではなかった。第一自分は彼女の連絡先を知らなかった。木曜のこの時間帯ということしか決まっていない(それも暗黙のルールだが)ので、店に彼女が来ない日もたまにあった。しかしこの約束なしに会える関係の緩さが自分には心地よく感じられた。
酔いが深まり、自分は徐々に饒舌になっていった。
「てか聞いてくださいよ」
二人の会話は基本的に自分が話題を提供した。日常生活で話す相手のいない自分にとって聞き手の存在は限りなく貴重だった。最初の頃こそ相手の出方を伺って慎重に言葉や内容を選んでいたものの、今ではくだらない世間話であれ思いつくものは大体何でも口に出すようになっていた。
「この間話した板前さんいるじゃないですか、バイト先の。昨日また料理長に理不尽な怒られ方してて…」
御影さんが彼女自身の話をすることは滅多になかったが、その代わり自分の話に対していつも好意的に相槌を打ったり意見を述べたりしてくれた。
彼女自身の情報が一向に更新されないことについて全く不満がないわけではなかったが、適度な距離感と引き換えにこの関係が長く続くのであれば別にいいと思っていた。何より自分の話を真剣に聞いてくれる人がいることが嬉しかったし、それで満足だった。
けれどもその日は少し違った。
「あの言いたいことあるんですけど、御影さんってほんとに生きてますか?」
「え?どうしたの、突然」
「だって御影さん全然自分の話してくれないじゃないですか」
「もうここで何回会ってるのか覚えてませんけど未だに御影さんのことほとんど何も知らないんですよ。悲しいですよ」
酒を一気にあおる。
「…ここにいない時、普段は何してるのかなって思っても何も想像できない。だから生きてるって感じがしないんです。こうして話してるのももしかしたら全部夢なんじゃないかって」
「まあそうかもね」
御影さんははぐらかすような態度をとっていた。
しかし途中何か考え事をしたかと思うと急にこちらに顔を寄せてきた。
「…ねえ、そんなに私のこと知りたいの?」
距離の近さに多少面食らったが負けじと返した。
「…そりゃ知りたいですよ、こう見えて自分御影さんのこと結構好きですからね」
好き、は恥ずかしがる素振りを見せず勢いに任せて言った。あくまでも知り合いとしてですよ、という意味でとってもらえるように。でも少しだけかまをかけてもいた。どこか肯定的な反応を期待する自分がいた。
そんな思惑をよそに顔を離して彼女は調子を変えず続ける。
「ふーんそうなんだ。ありがとう」
「…でもさ、そういうのって究極的には君が信じてるかどうかなんじゃない?私が生きてることをさ」
「はい?」
御影さんはたまに不思議なことを口にする。
「君が見ている私は君が見ている私でしかないでしょう?だからあなたにとって私が生きていることは、あなたがそれを信じることでしかない」
「はあ…」
困惑する自分を尻目に彼女はグラスを傾ける。
「…まあ私にとって私は生きてるけどね、間違いなく」
御影さんが身の上話をしてくれないことと御影さんの存在を信じることの間には飛躍があると思った。一方でその哲学めいた語りには妙な説得力があるような気もした。
「そうとも言えるかもしれないですけど…でも」
「ねえ、手出して」
「え?」
御影さんがこちらをまっすぐ見つめる。
唐突だったのでうまく応答できなかった。
意図が読めないままとりあえず右手を差し出す。
すると彼女はその手に自らの手を被せ、優しく握った。
自分は驚いた。これまで身体に触れたことは一度もなかった。心臓が跳ねるのを感じた。
「どう?あったかい?」
「…………はい」
その透き通るような肌からは想像できないほど彼女の手は温かかった。
「ほらね?生きてるでしょ、私」
御影さんが目を細めてささやく。
自分は高鳴る胸を落ち着かせながらゆっくりと頷いた。
確かにこの感触は本物だと思えた。柔らかな掌を通して本当の意味で御影さんを知ることができたような気がした。
自分は、この感覚をずっと欲していたのだと思った。
「……実は、最近ずっと不安だったんです」
「…それはどういう?」
「自分、大学にあんまり行けてないし、頼れる友人もいなくて」
「辛うじてバイトだけは続いてるけど、他は何も上手くいってなくて」
「この先の未来が見通せなくて、自分がどうなってしまうのか怖くて仕方がなかった」
「そんな中で、御影さんだけが自分の話に耳を傾けてくれた。自分を受け入れてくれた。それが唯一の希望で、幸せだったんです」
「だけど一度手にしたら今度はそれを失ってしまうことを恐れるようになって。御影さんがいつか突然いなくなっちゃうんじゃないかって考えが頭を離れなくて、心配で苦しくて」
「……でも、今こうして御影さんが生きてるんだってちゃんと確かめることができた。だからもう、大丈夫な気がします」
想いを伝えることができた安心感からにわかに眠気がやってきた。
「…うん。言葉にしてくれて、ありがとう」
御影さんが穏やかな表情で手を撫でてくれる。
音がぼんやりとし始める。瞼が重くなっていく。
「ありがとうございます、自分と出会って、くれて」
そのままカウンターにもたれかかる。
現実の境界線が曖昧になる。
薄れゆく意識の中で御影さんの声がかすかに聞こえた。
「これからも先もずっと…思い出して、信じて。私のことを、忘れないで」
夢を見た。
夜の砂漠を走る列車に乗っていた。日の昇らない空には子どもの落書きのような星がでたらめにちりばめられていた。乗客は自分以外に誰も見当たらず、車体の揺れる音だけが不気味にこだましていた。もう長い間ここに閉じ込められているような気がした。
さらに時間を経て列車はついに終点へ到着した。改札を抜けるとそれまでの暗闇が嘘のように晴れ渡った。少し歩くと目の前にオアシスというには一回り小さな水たまりが現れた。一口すくって飲むと爽やかな甘みを感じた。すると脇に生えていた南国風の木から蟹の形をした実がぼとりと落ちた。その瞬間、周囲の大量の砂が重力に逆らうように天へと舞い上がった。砂と共に自分の足もふわりと浮いた。見えない力が身体を押した。あっという間に地面が遠ざかっていった。見上げると太陽が眩く輝いていた。手を伸ばせばすぐ届きそうだった。光に吸い込まれるような気持ちがした。
目を覚ますと御影さんはいなかった。先ほどまで彼女が口をつけていたグラスも小皿もテーブルから消えていた。
自分は会計を済ませて店を出た。右手はまだほのかに温もりを帯びていた。
それから御影さんに会うことはなかった。
自分は真面目に大学へ行くようになった。授業の課題やゼミの準備に追われ、途中からは卒論の執筆も加わった。居酒屋からは自然と足が遠のいていった。
そうしてなんとか無事大学を卒業した。自分は神戸を離れ、故郷に戻った。
話を現在に戻す。今年の8月に旅行で3年ぶりに神戸を訪れた。観光のほか、住んでいたマンション近くの散策や、恩師や友人、バイト先への挨拶などをして回った(ただし例の板前さんは既に辞めていた)。
そして帰宅の前夜、あの居酒屋に寄った。これが思い出を巡る旅だとすればこの場所を外すことはできなかった。
その日はちょうど木曜だった。あるいは奇跡を信じていたのかもしれなかった。
当然だが、御影さんは来なかった。グラスをいくつか空にしたあと自分は店を後にした。
空を見上げると都会には珍しく星が瞬いていた。遠くから電車の通過する音が聞こえた。辺りは温かい匂いで満たされていた。自分の好きだった神戸は今も変わらずそこにあった。
この土地には色々な思い出がある。良いことも良くないことも未だに鮮明に形を保っていて、いつでも当時の価値のまま取り出すことができる。
もちろん、彼女のことも。
それらは記憶として心に留まり続ける。いつかは忘れてしまうかもしれないし、そうでなくとも細部は徐々に失われていくだろう。けれどもそれらが確かに自分の体験した出来事であると信じる限り、人も景色も全てはそこに存在し続ける。
御影さんにもう会えないのは、端的に自分が大人になったからだ。
それでも彼女は今もどこかで生きている。今もそう信じている。