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まず、この世界は美しい。これは世界が内包する要素、つまり特定の場所や出来事が美しいと言っているわけではない。この世界がこのように存在していることそのものが奇跡であり、それゆえ美しいのである。

(ここでいう美しさは醜さと対置される通常の意味とは異なる。ならば本来は別の言葉を用いるべきだが、この奇跡をあえて一言で表すとすればやはり美としか表現しようがない)

(存在することはあらゆる物事の前提であり、それゆえ疑いようがない。そして全ての存在は、他のありようがありえたという意味で本来偶然であるはずにも関わらず、他でもないこの世界という形で必然的に現れているように見える。これは端的に奇跡である)

 

そして私たちは、その美しさに囲まれて存在する意識的存在であるという点において幸福である。

(ついでにいえば、私が私の意識を享受することのできる唯一の存在であることもまた生きる意味になりうる)

(補足として、上記の美しく存在する世界とはいわゆる客観的世界である。それに対し私たちが見ている世界は厳密には主観的世界である。私たちは客観的世界を感覚器官から受容し、それらを意識の内に主観的世界として再構築しているといえる)

 

 

では私たちはどのようにして世界の美しさを知ることができるのか?それはあらゆる先入観を捨て去り、今まさに私たちの前に広がっている世界を直観することによってである。

(存在の看取は最も素朴な意識体験であり、したがって一切の思考の介入を許さない。ゆえに直観である)

 

ところで、ここで一つの壁が立ちはだかる。それは、直観と思考は両立しないが、直観によって美しいはずの何かを見るにも関わらず、思考によってしかそれが美しいものであると認識できないことである。

したがって、私たちが存在の美に触れることができるのは、世界に対する感覚が解釈されるまでのほんの一瞬の間のみに限られるといえるだろう。

(私は私を超えることができない以上、触れるというよりも限りなく近づくといった方が適切かもしれない)

(そしてその一瞬が訪れるのはもちろん現在においてである。過去や未来は私にとって思考の内に存在している)

(加えて、社会を生きる私たちが直観にたどり着くのは輪をかけて困難だろう。なぜなら人は思考し、言語を用いて意思疎通を試みることによって他者との共生の中で暮らしているからである。その意味において、世界を直観し続けることができるのはおそらく子どもだけである。だが一方で子どもはその直観の産物がなぜ奇跡であり幸福であるのかを知らない)

 

よって私たちは、すぐそこに幸福がありながらも、その祝福を常には授かることができないまま日常を歩んでいかなければならない。しかしそれはすなわち不幸であることを意味するのだろうか。

日々の出来事は幸不幸や快不快問わず様々な様相をもって私たちの前に現れる。その複雑さに翻弄されながらも私たちは自らの力で前へと進んでいく。多くの人にとって生きることは苦難の連続であるように見えるかもしれない。しかし人生とはそういうものであるように思われる。

(私たちの内に芽生える一切のものに対して世界は全く責任を持たない。私たちの意識は感覚に多様な概念を適用するが、世界はただそこにあり、刺激を提供するのみである)

 

存在の美はお守りのようなものだ。興味本位で中を覗くことは許されないが、それはいつでも私たちのそばにある。私たちはその加護のもとにあることを普段は実感しないまま、思い思いの思想や価値観に沿って日々を生きていく。それでいい。奇跡は待ち構えたり追い求めたりするものではない。前触れもなく向こうからやってくるものなのだ。

 

 

 

たとえばある日、あなたは帰宅中にふと鮮やかな夕焼けに目を留めるかもしれない。赤く染まる空には一つとして同じ形のない雲が浮かび、巣を目指す鳥の群れが地平の先に消えていく。少し視線を下ろせば建物の窓には次第に明かりが灯り、道端の街路樹が風に揺られて葉の擦れる音を鳴らし、すれ違う部活帰りの学生はたわいのない話で笑いあっている。そこであなたは世界の美しさに気づくだろう。その時あなたは過去や未来に想いを馳せることなく、ただ今その瞬間を感じている。それは間違いなく美的な体験である。

しかしあなたがその体験に美しいという感想を抱く頃にはもう生き生きとした感覚は立ち消えてしまっている。思考が蘇ればただちにその感覚は解釈され、時間を意識することのない体験はまさにその時こそ永遠に感じられるものではあるが、過ぎれば一瞬の出来事であったことが分かる。あなたはそのうち今日の晩ごはんや明日の予定のことを考え始める。思考とともに意識は日常へと戻っていく。

 

 

このような情景は通常の意味で美しいのではないかと思われるかもしれない。たしかにこの例はそういった要素を多分に含んでいるといえるだろう。しかし繰り返すがそれは思考を経た解釈の結果である。ここで重要なのは、普段であれば気にも留めないようなごくありふれた風景が、ある一瞬においてのみ特別に感じられるような体験である。その瞬間あなたはきっと、世界がこのように存在しているという奇跡を無時間的な永遠の中で感じとったのではないだろうか?

 

 

 

 

美を真に手に入れることはできないことを知りながらもなおその存在を信じ続けること、それは祈りといっていい行為だろう。そして祈りとは神に捧げるものである。神とみなしても大げさではないほど、世界は奇跡に満ちている。

(もしも神と呼ぶに値する者がいるのだとしたら、それは世界の外側か、あるいは世界そのものだろう。前者についてはいたとしても語ることができない。ならば後者に祈ってもよいのではないだろうか?)

 

ここまで書いたことが私たちの明日からの生活を一変させることはない。

それでも神である世界に祈ることには価値があると自分は信じている。